渋谷クロニクル ―過去・現在・未来―(上)
東京
1910年ごろの渋 谷駅周辺 提供/東急株式会社
東京3大副都心の一角を成し、商業・文化の中心地としても名が知られる渋谷区。その名の通り、渋谷駅を中心に谷状の地形になっていることが特徴で、スクランブル交差点やハチ公広場など近年、急速に知名度が上がった観光スポットを有し、国内外問わず多様な人が訪れる。駅周辺には大型の商業施設が集積し、ファッションや文化の発信地でもある。この連載は渋谷の中でも特に発展の目覚ましい渋谷駅周辺エリアの成り立ちや変遷をたどり、これからどのような街に発展していくのかを展望する。
渋谷駅ができたのは現在のJR山手線のルーツである日本鉄道の赤羽・品川間が開通した1885年。開通した当初は1日に3往復しかしない鉄道だった。白根記念渋谷区郷土博物館・文学館学芸員の田原光泰氏は「駅周辺は台地に武家屋敷がいくつかあるものの、田畑が広がっているのどかな場所で、さらに江戸城から離れているため郊外という扱いだった」と話す。明治前半までは茶葉の生産が盛んに行われていた。しかし、東海道線が開通したことで京都から宇治茶が輸送されるようになると、茶業は急速に衰退していく。
当時の渋谷駅は現在のJR埼京線のホームがある場所につくられたため、商業地として栄えていた道玄坂や宮益坂といった大山街道沿いの地域からは離れた場所にあった。1920年に現在の渋谷駅に場所を移し、東京横浜電鉄(現在の東急東横線)や帝都電鉄(現在の京王井の頭線)、東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線)の各路線が次々に開通したことで徐々にターミナル駅として規模を拡大。大山街道にもアクセスしやすくなったことで、周辺のにぎわいを取り込み急速に発展していったという。
にぎわいの中心地が大山街道から渋谷駅の周辺へと移行した正確な時期は不明だが、明治~大正時代は大山街道沿いに映画館が点在していた。それが大正後期~昭和初期になると、今度は駅から同心円状に映画館が分布するようになる。大正後期~昭和初期にかけてにぎわいの場が大山街道から駅周辺に移り、映画が駅周辺の発展と密接に関係していたことが分かる。
45年は太平洋戦争の空襲で渋谷のまちは甚大な被害に見舞われた。終戦後、50年代に入ると東急文化会館などが開業、空中ケーブルカーひばり号が開通したのもこの頃だ。その当時、映画館は30カ所以上あったという。多くの人に愛され、貴重な娯楽の一つだった“映画”が復興の一翼を担っていたことがうかがえる。70年代にはファッションコミュニティ109(現SHIBUYA109)が誕生し、空襲以前よりもにぎわいを増していった。80年代以降は渋谷センター街を中心に独自の若者文化が発展した。90年代後半には多くのIT企業が渋谷に集積し、「ビットバレー」として知られるようになった。この間、テレビやその他の娯楽の台頭、インターネットの普及などでかつて隆盛を誇った映画館は少しずつ姿を消していく。それでも90年代に単館上映の映画を楽しむミニシアターブームの中心も渋谷だった。映画は渋谷のまちの発展に欠かせない一つのキーワードでもあったのではないか。2000年代には、渋谷マークシティやセルリアンタワーなどの商業施設やオフィスビルが続々と誕生し、現在の渋谷の街並みに近づいていく。
次回は開発が進む渋谷の現況と映画『PERFECT DAYS』でも取り上げられた一風変わった公衆トイレについて取り上げる。
